MENU

    望月の歴史を探る なぜ「駒の里」なのか?

    なぜ佐久市望月(旧望月町)は【駒の里】と呼ばれるようになったのか?

    それは京都に都があった時まで遡るそうです。
    当時、御牧が原(現東御市)・望月一帯は朝廷に献上するための馬を養成するための雄大な牧場になっていました。

    ここで生産される馬はとても立派だったそうです。
    そのため「望月の駒」として有名だったと言われています。

    朝廷に献上するための牧場を「御牧(みまき)」と呼んでおり、献上する日が満月だったこと、満月は別名「望月」ということから、いつしか望月という名称が使われ始めたとされています。

    こうした歴史から、望月地区は馬と共に生活してきた場所だったので「駒の里」と呼ばれています。

    現代において本物の馬は限られた場所(望月馬事公苑)にしかいませんが、マンホールのデザインが馬だったり、街のところどころに馬のオブジェがあったり、望月にとって馬は今でも身近なシンボルとなっています。

    よかったらシェアしてね!
    • URLをコピーしました!
    • URLをコピーしました!

    この記事を書いた人

    【IT 広報】呉 達人のアバター 【IT 広報】呉 達人 合同会社FRONTIER TRADE代表

    よろずやらずプロジェクト有志メンバー。
    WEBサイト、YouTube、ECなどのIT分野と広報を担当。
    1989年生まれ東京出身神奈川育ち。
    2021年2月に長野県佐久市へ移住。
    望月地域には大学時代に所属していた馬術部の夏合宿で初めて滞在。
    自然と温泉に魅了され、東京での社会人生活、独立起業を経て移住。
    経営する会社の事務所は望月にあります。

    コメント

    コメントする

    目次